茶道具類

やきもののみかたの基本(日本六古窯・遠州七窯)・茶碗の型と部位の名称やきものの分類釉薬やきものとその特徴(窯元)
茶道具類 掛物・花入れ・茶杓・茶筅・釜・茶入れなど



やきもののみかたの基本
やきものの生産現場である窯(かま)には、その読み方が難しいものがたくさん出てきます
はじめにその窯元の読み方と地域を紹介します

日本六古窯
中世の六古窯で、土師器(はじき)・須恵器(すえき)・瓷器(じき:かめ)のいずれかの流れに属しています

信楽(しがらき)
備前(びぜん)
越前(えちぜん)
瀬戸(せと)
丹波(たんば)
常滑(とこなめ)




遠州七窯
千利休。古田織部を継いた小堀遠州(1575〜1674)が好んだ焼き物です

志戸呂(しどろ) 静岡県榛原郡
慶長年間に徳川家康が瀬戸の陶工「加藤九郎右衛門景延」を
招いて再興したといわれます
膳所(ぜぜ) 滋賀県大津市
膳所の城主石川忠総が遠州の指導の下に築いた窯でしたが
一代で途絶えてしまいました
上野(あがの) 豊前(福岡県)
細川三斉が朝鮮から連れ帰った陶工「尊楷」が
窯を開きました
高取(たかとり) 筑前(佐賀県)
黒田長政が朝鮮から連れ帰った陶工「八山」が
鷹取山で窯を開いたことに始まります
朝日(あさひ) 宇治
小堀遠州の門下永井信斉が朝日山で
窯を開きました
赤膚(あかはだ) 奈良県奈良市
天正年間(1590年代)に大和郡山城主であった豊臣秀長が
尾張の常滑から陶工「与九郎」を招いて窯を開かせたのが始まりです
古曽部(こそべ) 摂津(兵庫県)
寛政年間(1790年ごろ)に五十嵐新平が釜を築いたのが始まりで
小堀遠州没後の開窯といわれています






茶碗の型と部位の名称
茶碗の名称  
図のように茶碗の名称を知っていると話に花が咲くようになります

端反茶碗井戸形茶碗鉄鉢茶碗椀形茶碗
平茶碗天目形茶碗



杉なり茶碗こもがい形茶碗筒茶碗半筒茶碗


茶碗各部名称




やきものの分類

焼き物は分類しますと四種類に分けられます

「陶器」 粘土に釉薬を施し1100〜1200度で焼かれます
一般的に素焼き後に絵付け、施釉、本焼という工程を経ます
笠間・益子・織部・志野・唐津・萩・相馬・薩摩焼など
「磁器」 石の粉に粘土や石英などを混ぜた陶石を使用します
焼成温度は1300度前後の高温です
有田・伊万里・九谷・瀬戸・美濃・砥部焼など
「せっ器」
(やきしめ)
吸水性の少ない粘土を使用し釉薬をかけません
1200〜1300度の高温で長時間掛けて焼成します
備前・常滑・信楽・万古・伊賀焼など
「土器」 粘土に釉薬無しで素焼きで完成します
焼成温度は700〜800度で焼成します
食器には向きません(植木鉢など)

一般に"やきもの"を陶器と言いますが、上記のように4種類に分類することができます
陶芸に親しんでいる人たちは、通常「陶器」は「土もの」、「磁器」は「石もの」と呼んでいます



釉薬(ゆうやく)
釉薬の成分・焼成温度による釉薬の分類・色による釉薬の分類・釉薬の掛け方

釉薬を施すことにより吸水性をなくし装飾性を与えます
釉薬の成分



焼成温度による分類

低火度釉 1200℃以下で溶融する釉薬です
鉛釉・アルカリ釉・硼酸釉・フリット釉
中火度釉 1250℃以下で溶融します
亜鉛釉・バリウム釉・フリット釉
高火度釉 1250℃以上で溶融します
長石釉・タルク釉・ドロマイト釉

通常使用される釉薬は高火度釉が使用されます

色による分類

辰砂釉、均窯釉、釉裏紅、鉄赤釉、鉄砂釉、クロムピンク釉

トルコブルー釉、瑠璃釉、影青(いんちん)釉、砧青磁釉、なまこ釉
灰釉という灰を原料とした釉薬で
高温で溶かすと灰の成分が黄となる
黄瀬戸釉、黄いらぼ釉
鉛釉と 銅釉(織部)高火度釉など灰釉、青磁釉、織部釉、クロム緑釉

飴釉、柿釉、蕎麦釉
鉄の成分から作られる釉薬黒天目釉、瀬戸黒釉、油滴天目釉、曜変天目釉

志野釉、わら灰釉、糠白釉、その他の乳濁釉やマット釉


釉がけ
釉薬を素焼きした素地に掛けることを釉がけと言います
釉薬のかけ方には、流しがけ、浸しがけ、吹がけ、刷毛で塗る塗りがけなどがあります
このほかにも、その素地の形状や釉薬の特性などを考慮したいろいろな釉がけの方法があります

流しがけ
(柄杓がけ)
竹製柄杓や金属柄杓に釉薬を入れ、素焼きした素地を廻しながら満遍なく掛けたり、
部分掛けて模様にします。
大型のもので釉薬掛け容器に入りきらない場合この方法を用います。
浸しがけ
(丸がけ)
素地の大きさに応じた容器(バケツ類)に釉薬を入れ、
釉薬が沈殿しないように攪拌しながら素地を釉薬に浸し入れて全体に掛けます。
簡単に早く出来るので一般的に多く用いられる釉掛けの方法です。
吹がけ 霧吹きやコンプレッサーで釉薬を掛ける方法です。
釉薬を均一に掛けたり濃淡をつけることも出来ます
バッカンがけ 湯飲みなど筒状のものに釉薬を掛ける方法です。
高台を持ち素地の口縁の方から釉薬に浸しいれ、
高台付近まで釉薬が掛かったら急に素地の口縁が釉薬の表面近くに来るように引き上げ、
その直後すぐ素地を下に押し入れます。
すると素地の内側まで釉薬が一度に掛かります。
塗りがけ
刷毛や筆で釉薬を塗って掛けます
釉薬に濃淡をつけることが出来ます




やきものとその特徴

全国に窯元はたくさん在りますが、それぞれに深い味わいを持ち、完成した器は
描かれた絵や文様などに独自の特徴を備えています

京都:楽焼き山形:平清水焼き栃木:益子焼き茨城:笠間焼き群馬:月夜野焼き
新潟:無明異焼岐阜:美濃焼き愛知:瀬戸焼高山:渋草焼き愛知:常滑焼き
三重:伊賀焼き金沢:九谷焼き金沢:大樋焼き福井:越前焼き滋賀:信楽焼き
京都・京焼き奈良:赤膚焼き兵庫:丹波立杭焼き岡山:備前焼き山口・萩焼き
福岡:上野焼き福岡:小石原焼き大分:小鹿田焼き佐賀・唐津焼き佐賀:有田焼



全国の窯元別にみる焼きものの特徴

全国には約30箇所ほどの焼き物の産地が在り、窯元となると非常にたくさんの数があります
そのたくさんある窯元それぞれに、その焼き物の特徴があります
その中から、ポピュラーなもの、比較的人気が高く皆さんが、親しんでいる焼き物、私が訪れ話を伺った窯元の方々に付き記します



東北仙台早乙女からバスで30分ほど乗り歩いて20分ほどのところに"つつみ焼き"があります
幹馬さんという、江戸時代からこの地で窯をきづき、なまこの釉薬を使って器を焼いている陶芸家にお会いしました

仙台は伊達家62万石の城下町で、茶道は盛んな土地柄です
伊達政宗はなかなかの人物で東北を支配していた事は皆様ご存知のことと思います
豊臣秀吉の度重なる上洛の要請にもかかわらずなかなか秀吉に会おうとしませんでしたが
利休が茶を振舞うと言うことでようやく上洛したと言われています
伊達政宗は京で茶儀を学んだ茶人鈴木元信をかかえ、お茶に親しんでいたようです

私が訪れましたときは11月も終わりの頃でした
幹馬さんはとても気さくなお人柄で、自らお茶などをお振舞いになり
いろいろな楽しい興味あるお話をしていただきました


つつみ焼き 幹馬さん

仙台は、裏千家千宗室夫人の生まれたところだとか
幹馬さんは、京都の今日庵に毎年器を収めに出かけるのだそうです
その三畳台目の狭い小間はやはり落ち着きますと語っておられました

天皇皇后両陛下はじめ皇太子様、高松宮様のご訪問時の写真などを拝見しながら
楽しい一時を過ごしました

幹馬さんの作品を高嶋屋の陶芸作品展でお見かけしました
精力的にご活躍のようです
焼き物もさることながら陶工人生を歩んでいる方々とのお話も又楽しいものです
 
仙台にはまた岡崎さんという加藤藤九郎について陶芸を学び不坊釜をきづき、ニユーヨークで現代アートとして活躍している方もいます。


松井康生作練上壷鑑賞(松井康生・板谷波山作品展示室:笠間陶芸美術館にて)


幸兵衛窯(多治見) 加藤卓夫先生


楽茶椀



ろくろは使用せずに手びねりで仕上げます
焼成温度は低めで焼き上げます
桃山時代天正年間(1573〜92)に千利休の指導の下、陶工長次郎によって始められました
約400年間、京都樂家十五代にわたって、代々焼き継がれています
長次郎は、千利休の大成した侘び茶の思想を茶碗の中に造形化し、茶の湯のための陶芸という新しい世界を生み出しました


平清水焼き(山形県)



江戸中期、笠間焼き、相馬焼きの陶工を招いて開窯したのが始まりのようです
有田焼きに並び称される美しい梨青磁色の肌合いと残雪の色合いを特徴とします
千歳山のふもとの山間に窯元があります
鉄分をおおく含む丸山の陶土が、焼きあがる際に気化して青みをおびた独特の風合いをかもし出します



益子焼き(栃木県)



その素朴な色合いと朴訥でどっしりとした独特な手触りを特徴とします。
そのどっしりとした質感は新福寺粘土などの気泡性をもつ荒い陶土によるものです
釉薬は木や石を原料にした自然釉が用いられ籾殻を焼いた灰で作る白色失透釉は益子ならではの釉薬です
又装飾技法では鉄や銅を用いて釉薬を施した器の上に山水や草木などをえがいた鉄絵や赤絵もあります
又、刷毛で化粧土をかける刷毛目などもあります
柿釉と黒釉は地元特産の葦沼石から作られます
気取りのないおおらかな仕上がりが益子焼きの特徴であり、民芸調と言われてます

大正時代、河合寛治郎らと民芸運動をしていた後の人間国宝、
濱田庄司イギリスの陶芸家バーナードリーチ等により
世界に知られるようになりました
その歴史は笠間焼に遅れること約80年、大塚啓三郎が益子に窯を築いた嘉永年間1850年頃から始まります 
(京都に河合寛次郎記念館があり小さな登り窯もあります。そこを出ると、お豆腐の美味しいお店がありますけれどこれは少し余談になりました。)



笠間焼き(茨城県笠間市)



特徴のないのが特徴でしょうか
クラフト風のおしゃれな壷などが多いです
陶土には関東ローム層の笠間粘土や花崗岩の風化により鉄分の多い蛙目(がいろめ)粘土が使われています
渋い茶褐色の色合いのものが多く装飾技法もどんどん新しいものを撮り入れているのが魅力です
人間国宝
松井康成氏ら作家の活躍で注目されています



月夜野焼き(群馬県月夜野町)



燃え立つような赤や渋い緑色が特徴です
新幹線のトンネル工事で偶然に生まれた群馬県で最初の本格的な焼物です
マグカップ、一輪差しなどが多いようです
トンネル工事のときに排出された磁器質流紋岩など混ぜた月夜野土で作られ、燃えるような赤は銅を基本とした
辰砂釉によるものでです
歴史は昭和50年代陶芸家である福田裕太郎氏がトンネル工事排出土のなかに焼物に適した土を発見
郷里の有田焼きを参考にして月夜野焼きを完成させました



無明異焼(新潟県)



佐渡金山から排出された土を利用して光沢のある独特の赤褐色をした焼物です
使用する陶土には昔から薬用効果があると言われています 
釉薬をかけずに焼く、焼き締め工法で独特の光沢は焼き締め前後の2回の研磨作業で光沢を出しています
たたくと陶器には珍しい澄んだ金属音を出します
江戸時代に佐渡金山の土を使用し楽焼から始まりました
陶土は赤褐色の酸化鉄の多いものを使います
これで作られた急須や茶碗などで茶を飲むと中風や胃腸病の予防になるといわれています



美濃焼き(岐阜県土岐市)

土岐川当たりを中心に全国の過半数の和洋食器を生産しています

志野・織部等独特のやきものの産地です
もぐさ土と言われる粘土(蛙目粘土の一種)で焼きあがると軽くなる特有の土で焼きます
白い長石釉をかけ、地肌の色とあいまって暖かなぬくもりをかもし出す美濃焼きは茶人の間で人気が高いですね
代表的には絵志野や鼠志野などある。

国焼きの中で初めて絵が描けたものです
国宝「卯の花垣」が有名です
昭和初期に荒川豊三、絵志野、陶辺発見により瀬戸ではなく美濃で焼かれた事で歴史を大きく変えました
織部も美濃で焼かれ幾何学文様でロクロではない型打ち成型という方法で作られ六角型などが出来ています
織部釉は灰釉に酸化銅を加えて緑色を出しています

志野の代表的な加藤唐九郎は陶芸大字典など5年の歳月をかけ全6巻を完成させました

著書も多く87才の生涯を閉じましたが、唐九郎を始めとして陶芸史上に残る大人物も輩出しています
殊に30才の頃、「氷柱」で昭和の大茶人である益田鈍翁により加藤の才能を見出し世に認められました
81才の時、立原正秋が命名した「紫匂ひ」は大好評で初めてこのとき紫志野が出現しています
又、川端康成も加藤の美濃を愛して「川の端」と言う銘の志野焼きを所持しています
その著書「千羽鶴」の中にも茶碗を登場させています
この頃から一般大衆にも志野の良さが普及をはじめ女性の間で人気が高まりました
しかし志野はやはり野武士のような存在であって決して女性的ではないように感じます

黄瀬戸・瀬戸黒も鉄釉の変化によって生まれました
これも加藤唐九郎60才の時に出来あがったものです
黄瀬戸は川端自殺のときに枕元に置かれていたとのことです
加藤は彼の為に骨つぼを焼いたのです

様々な面で加藤は世を驚かせました
谷川哲三が上野の美術館にいたとき、「君、これは僕が焼いた黄瀬戸だ」と言って驚かせたりもしたようです
又大きな事件でも話題を振り撒き、「永仁の壷」事件では、時の文部次官などが辞職することになりました
権威とは何かと言う問題提起を行ったのです

その後彼は公職から離れたましたが、漢詩人の服部より「一ム才」という名を得たりしましたが
学問も財産も自分にとっては救いにならず、結局は陶芸に寄るしかないのだと言い
精力的な陶芸活動を87才まで続けました

歴史は平安時代の延喜式に陶器の国として歴史に残っている
最近では親子2代人間国宝となった加藤卓夫先生も美濃の出身です



瀬戸焼(愛知県)


瀬戸もので知られる日本一の和洋食器の産地です
酸化コバルトによる染付けし高温で焼き唐草文様が多いです
奈良時代から猿投山付近で焼かれていたのですが室町時代美濃焼きに押され衰退しました
その後江戸時代加藤民吉が現れ「御深井焼き」と呼ばれ陶器だけでなく
磁器も焼かれるようになり日用雑記を機戒などで大量に生産するようになりまして世界的にも瀬戸焼は広まりました

愛知県陶磁資料館では、お客様の希望する器でお茶が飲めます



渋草焼き(高山)

九谷焼有田焼きを思わせる渋い色調に赤絵で知られる陶器があります
又、最近では新たな試みで人間国宝加藤土師明(かとうはじめ)氏を始めとして、
高山の漆を使った漆陶という焼物も出来ています



1841年(天保12年)に高山郡代豊田藤之助が地元の商人と共に全国の陶工を集め(殊に有田九谷等)渋草焼きをおこしました
江戸幕府の滅亡と共に一時衰えたが、明治11年、三輪源次朗らにより「渋草焼・芳国舎」として再建されました



常滑焼き(愛知県)



朱泥の急須や土管でおなじみのこの焼物は
ベンガラと言う酸化鉄を混ぜて焼き締めています
平安時代後期からお経を入れる壷:経塚壷として焼かれていました
国宝「秋草文壷」が有名です
水野堅物の影響で水差しなど盛んに焼きましたが、堅物の水差しは明智に荷担したため、織田信長から禁止例が出されました
その後江戸時代になり、今のような白泥の上に独特の緋色をかけて作る「もがけぎほう」を完成させました
旧帝國ホテルのテラコッタなども焼かれました
明治になり中国人:金士恒らの努力により現在の急須を作るに至ってます



伊賀焼き(三重県)

表面に白い長石が点在するのを特徴としています
伊賀の粘土は、蛙目(がいろめ)粘土や木節(きぶし)粘土が中心です
蛙目は硅石や長石の小粒を含み収縮や可塑性・乾燥強度が大きく
木節は鉄分は少なく耐火度が高く、亀裂が生じやすい性質を持ています
伊賀の七度焼きといいますが実際に七度焼くことは稀のようです
予期せぬ「窯変」が起こり、破調の美が生まれることになる。
「伊賀に耳あり信楽焼きに耳なし」と言われます



伊賀焼の美の原点といわれる火色(ひいろ)は器の表面に焼き付けられた伊賀焼のしるしです
ビードロ釉は独特でなものです
蛙目粘土、木節粘土を使うので人工的に造形した動きのある作品が多いです
奈良時代から油つぼなどとして焼いていましたが
安土桃山時代に古田織部などとも親交があり水差しなども焼いていたようです
江戸時代小堀遠州なども陶器を焼き遠州伊賀とも呼ばれています



九谷焼き(金沢)



古九谷は有田で焼かれていました
絵の具による金襴5彩色で綺羅びらやかな印象です
1600年代頃から焼いていたらしいです
明治になり九谷庄三らが受け継ぎ、近年に朝倉五十吉が文化功労者に選ばれました



大樋焼き(石川県金沢市)



大樋飴釉と言われる独特の釉薬を使ます
藩の御用窯として
お庭焼でした
裏千家4代目が楽焼の土師長左衛門をつれて加賀藩に出かけ、大樋村に窯を作りました
大樋長左衛門代代受け継ぐ美術館があります
現在、十代目大樋長左衛門がご活躍です



越前焼き(福井県)



釉薬は使わず紐作りにより作り上げていきます
ガラス質の多い粘土のため高温で焼き上げます
甕(かめ)などが多いです

 



信楽焼き(滋賀県)



タヌキで有名ですね
飾り気のない素朴さが人気です
赤松が多く粘りのある粘土が特徴です
長石、石英が多く含まれていてこれが焼かれるとき表面に露出し野性的な趣を持ちます
天平時代750年頃、聖武天皇が紫香楽宮をこの地に造ろうとしたことから始まります
はじめは瓦などを焼いていました 
茶の流行により壷ではとくに有名で
武野紹鴎「花入れを蹲る」として珍重したことは知られています



京焼き 



絵の具を厚手に塗った豪華な茶碗で有名です
5世紀の雄略天皇の頃からあり17世紀仁和寺の
清兵衛がつくりだした京焼きは方向づけるものでありました
京焼の黄金時代は、元禄期の仁清乾山を頂点として開かれましたが、第二の隆盛期は、その後文化・文政期を中心に築かれました
その後野々村仁清の弟子、緒方光琳の弟の緒方乾山も絵画的な要素を持つ今日の京焼きを作り出しました
明治期になり酸化コバルトの利用により、その鮮やかな発色が人気を呼び大量に海外にも輸出されるようになりました



赤膚焼き(奈良県)


奈良の鉄分の多い粘土を使い、うっすらと紅くなるのが特徴で神社などの絵を書いた楽しいものです
新古今和歌集「衣だに二つありせば赤膚の山に一つはかさましものを」と読まれたところから命名されました



丹波立杭焼き(兵庫県)



赤褐色の器肌に青緑色の釉薬がかけられ壷が多いです
鎌倉時代に
穴窯で焼かれ、焼き上げるのに半月ほどかかったようです
やがて登り窯になり江戸時代に小堀遠州の目に止まり
やがて明治になり民芸運動の濱田庄治の目に止まり、全国に知られるようになりました



備前焼(岡山県)

日本六古窯の一つ
須恵器から備前焼に発展し、無釉焼しめの伝統を守り続けています
温度変化に弱く壊れやすい
少しずつ薪(松割木)を増やしながら釉を掛けずに良質の陶土をじっくりと焼きしめます
高温で土と火が織り成す曜変の美しさが観どころ


灰かぶり
登り窯で、焚き口のすぐ下の床で、
燠に埋めて焼成します。
床に接した下の面には自然の桟切りができ、
上の面にはブツブツした半溶け状態の灰が、
榎の肌のようにこびりついています。
この焼けの無傷でいいものは、
ひと窯焚いてほんの数点という珍重品です。

胡麻(ゴマ)
松割り木の灰が、素地に降りかかってできる模様です。
窯の内の温度差で灰の溶け具合が異なり
「流れ胡麻」「カセ胡麻」「黒胡麻」等
数種のものがあります。
胡麻の定着には少なくとも一週間以上
割り木を焚き続けなければなりません。

桟切(サンギリ)
窯の隅や、器物の陰など、直接に炎や灰の当たらない、
煙に包み込まれるような場所でとれる模様です。
人工的には、炭を落とし入れ、
それを燃焼させることによって、
還元状況をつくり出します。
金彩や銀彩・灰色などを呈しています

緋襷(ヒダスキ)
素地に稲藁を巻いて焼成すると、
藁の跡が緋色の筋となって発色します。
登り窯では「サヤ」に入れて、割り木の炎を遮断して
焼かなければならないので、
以前は貴重な焼けのひとつでした。
今は、ガス窯・電気窯で、
鮮やかな緋襷が作り出せるようになりました。

伏せ焼
かぶせ焼とも言われるもので、
壷や徳利の口辺に椀形のものをかぶせて焼成する。
また、壷、花器などの口に、
一輪形の花入を差し込んで焼成することもある。
ともに、器物で包み込まれた所が、
黒灰色や赤褐色を呈する。
まれに、金、銀彩が表れる場合もある。

金、銀彩
一種のラスター彩で、
強い還元状況によって生まれる模様である。
備前焼で、桟切と呼ばれているもののなかに、
部分的に金、銀彩が表れる。
また作品全体が、金彩に被われる場合があるが、
これは、作品を密に詰め、炎の通りを極力抑えることによって、
偶然生まれてくるものである。

メロン肌(かせ胡麻)
備前焼で、松割木の灰が作品に降りかかり、
溶けてできる模様が胡麻といわれるものである。
窯の中の温度の高低によってそれぞれ、
流れ胡麻、かせ胡麻、黒胡麻となるが、
1100℃前後の比較的低温で焼成するのが、
かせ胡麻である。
一般に灰緑色をしており、
手に触れる感じがザラザラしている。
こうしたかせ胡麻の中で、特に荒い貫入が入ったものを
メロン肌(かせ胡麻)と呼んでいる。

ぼた餅
皿や大鉢の底部に、黒灰色、赤褐色、
或は金、銀のラスター彩など、
円形の抜けがあるものをいう。
これは、白地の器物に、耐火度の高い土を
煎餅様にしたもの(ぼた)を乗せて焼成する。
ぼたが置かれた部分は、灰や炎が遮られて、
独特の色調をもった抜けができるのである。


村田珠光に始まり人間国宝の金重陶陽、藤原哲雄親子、山本陶秀など多数を数える
10月の備前焼き祭りには10万人の人が出る



萩焼き



萩のなな化け、かんにゅうの変化の面白さがあります
焼く温度が比較的低く焼き締めが弱くひび割れが入ります 
萩焼のロクロは蹴ロクロといって、足で回転させながら手で作品を作る朝鮮式です
ロクロ作業で水引きした茶碗・花生等は、二・三日間陰干しした上で高台削り、耳付け等をして仕上げます
高台の削り具合で竹節高台・切高台・割高台等になります
仕上げた茶碗が、その胎土に鉄分を含んでいれば焼き上がりは黒色を呈します
そこでこれを美しく見せるために、素土がまだ軟らかいうちに刷毛を用いて白土を刷毛引きして景色を作りますあるいは化粧掛けや焼き方を工夫すると面白い色調のものができます

割高台も特徴です



朝鮮出兵の時李杓光を連れてきて松本の地に窯を作ったのが始まりです
その後深川の地に窯を築く流れもあり
李のながれを組むものに坂高麗座衣文といい、後に三輪家を抱え休雪など親子人間国宝を輩出しました



上野(あがの)焼き(福岡県)



小倉藩の御用窯そんかい1600年頃により確立
遠州七釜のひとつ
緑青長しといわれる釉薬を使います
細川三斉が朝鮮から連れてきた陶工尊楷(上野善蔵)に作らせた焼き物





小石原焼き(福岡県)



かめなどの大きな物が特徴です
1600年代伊万里から陶工を招き始める



小鹿田(おんた)焼き(大分県)



刷毛目 
永し釉薬を使った技法で器面を埋め尽くしているのが特徴です
手間隙かけた手作りです
民芸運動の推進役であった柳宗悦が力強く実用と美を兼ね備えた焼物ともてはやしました
昭和の始めにはパーナードリーチらも注目し1ヶ月ほど滞在し自分も焼いてみたことから世界的に名が知られました



唐津(唐津市)



砂目といわれる土で朝鮮陶工により窯を開きました
絵付けと釉薬のかけ方を特徴とします
絵唐津   草・花・木など酸化鉄質の釉薬で鈍色のかげが器肌に染み込んだ影のようでいかにも渋い味わいです
まだら唐津 白く焼成された器肌に斑点のように黒・青のてんが表れたもの、わら灰などが熱で失透し白くなる作用を利用しています
朝鮮唐津  わら灰と黒釉薬の黒っぽくやけるものが朝鮮唐津です。鉄釉薬を下にしてわら灰を上からながします
        しろの無造作にかけられた様子を景色として喜ばれます



三島唐津



朝鮮の技法をそのまま受け継ぎ、生かわきのうちに刷毛(はけ)などで文様を描き、化粧土を塗った後で削りふき取り仕上げ文様を出します
仁彩唐津・黒唐津・粉引唐津・青唐津と様々です
豊臣秀吉の朝鮮出兵から始まり、1600年代中里家がこれを受け継ぎ御用窯となりました
昭和51年には中里太郎衛門が人間国宝となりました



有田焼(佐賀県)



有田焼(伊万里焼とも言われます)は磁器です
江戸時代16世紀頃、景徳鎮から伊万里がヨーロッパで話題を呼ぶようになりました
絵の具で絵付けをする古伊万里は坂田柿右衛門様式と呼ばれる優雅な技法です
地肌に"濁りで"といわれる透明度を押さえた柔らか味の白を出し完成させました
鍋島藩様式もあり、藩の御用窯で一般大衆には許されませんでした
整然とした配色や構図に青みがかった器肌に描かれた文様は格調の高い上品なものとして高く評価されています 
色鍋島等もあます
李参平が朝鮮出兵のさい日本にやってきて窯を作ったことから始まりました






茶道具

茶室内におきましては茶道具といわれる、いろいろな道具が使われます
その茶道具がどのような場所で、どのような配置で使用されるのか(主に)下図に示します





花入れと掛物・茶入れ・茶器・茶杓・釜と水指し・風炉

花入れと掛物



花入れは古くは唐物青磁でありましたが竹、籠花入れなども使われるようになりました
花は掛物同様に大切なものですが、その花を生ける花入れも重要です
利休の時代から花器のことを花入れと呼ばれるようになりました

茶掛け

現代の茶会では掛物がその主題となります
茶会を催す場合、亭主はテーマを定めてそれに因んだ掛物を用意します
亭主と客の間で、先ず「お床(とこ)は?」という客の問いかけがありますが、
茶室においては、最初に掛物の拝見から始まります
掛物では、禅の高僧の墨蹟(ぼくせき)が喜ばれるようになりました
また、和歌の色紙、懐紙、古筆切れなども使われます



茶入れ、茶器、茶杓

茶入れ(陶製の小壷)は濃茶を入れる器です
茶器は薄茶を入れる器で、薄茶器または薄器とも言います 。
材質は木地・漆器・象牙・竹・籠地・一閑張などがありますが、一般的には塗り物が多く棗(なつめ)が代表的です

 


茶杓


茶杓は茶をすくう道具茶匙(ちゃさじ)です
古来は象牙でしたが、後に竹(武野紹鴎をご参照下さい)で造られる様になりました
茶碗は古くは唐物でしたが、高麗茶碗が珍重され更に国物の楽、萩、唐津などの焼き物が茶人の間で喜ばれるようになりました
茶杓の種類は大別すると3種類に分類できます
真 基本形を備え節の無いもので、象牙や漆塗り、竹製がある。
行 竹の元節のもの。
草 木製(松・桜・梅・楓など)のものや、竹製でも中節のもの。


釜と水指(みずさし)

釜は真形釜(しんなりがま)が基本とされますが、季節ごとに、炉用、風呂用つり釜なども造られるようになりました
水指は釜に水を足したり、茶碗をすすいだりするための水を入れておく蓋付の容器です
台子皆具から始まり、陶器、金属、塗り物、木地などがあります





蓋置き
釜の蓋や柄杓を置きます




風炉の種類



土風炉 色紙風炉:低い風炉の口が四角に切ってあり、その口の形が色紙形
紹鴎風炉:眉風炉
四方風炉:角形軸足で火口も角形に切ってある
透木風炉:火鉢形で透木を用いる
箪瓢風炉:瓢箪の逆さまの形で口は浅く道安に切ってある
道安風炉:千道安好で火口のくりが大きく、腰の張った風炉
面取風炉:道安風炉の上縁の角を大きく面取りしたもの 
紅鉢風炉:火口を半円形に切った摺り鉢形
鳳凰風炉:胴に鳳凰の浮き文があり眉風炉形       
唐銅風炉 朝鮮風炉:肩が張って長い乳足の風炉    
鬼面風炉:中国より渡来した最も古い形で鐶付きが鬼面
琉球風炉:撫で肩で足が短い乳足の風炉    
鳳凰風炉: 鳳凰風炉と擂座富士釜があります
鉄風炉 鉄風炉は腐食で口縁部や甑等が欠け落ちることが多かったが、
茶人はそこ風情を見出して、そのまま使うことで「破れ風炉」あるいは「欠け」「やつれ」と称して、
名残の茶席等で侘として好まれ、その後最初から欠け風炉として造られるようになった
大きな鬼面風炉の姿が多い
板風炉 周囲を板で囲んで内側を炉と同じように壁を塗りつけたもの
中の灰は炉灰を使って、名残の茶席等で使用される
陶磁器風炉





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